こんにちは、まさおです。
どうも梅雨が戻ってきた感じだぞ。昨日から再び梅雨のような天気になっています。
今週はずっと曇りか雨の天気予報。
それにしてもはっきりした天気だなあ。めちゃくちゃ暑いか雨かのどっちか。
もう少しちょうどいい天気になってくれ。まあ、夏だから暑いのは当然か。
今読んでいる本について。
佐藤優さんと斎藤環さんの対談「なぜ人に会うのはつらいか」という本を読んでいます。
この本の中ですごく大事なことを言っていると思われるが、内容が理解できない箇所があったので書いておきます。
p151で斎藤さんが
ちょっと理屈を言いますと、そもそも「生についての価値判断は不可能」なんですね。あらゆる価値判断の基盤が生命である以上、生そのものについてはそもそも理論階梯が違うため、価値判断ができない。
と言っています。
優性思想の危険性についてのやりとりの中で出てくるところです。
どいういう意味なんだろうか? わからないのでネットで調べてみた。
ヒットしたページがこれ。
斎藤さんが「「マイルドな優生思想」が蔓延る日本に「安楽死」は百年早い」というタイトルで寄稿したコラムの一部。
本書の中と同じことがコラム内に書いてあった。本書を読んでも理解できなかったのでこちらのコラムを読んで理解しようとしてみた。
コラムの中で斎藤さんは以下のように言っている。
ここで言う優生思想とは、優秀な遺伝子を継承すべく人工的な淘汰を肯定する思想、ということに限定されるものではない。人間の「生」に対して、「良い生」や「悪い生」があるといった価値判断を下す思想全般のことである。
このくだりの後で斎藤さんは
私の考えでは、つきつめれば「生についての価値判断は不可能」ということになる。あらゆる価値の基盤が生命である以上、生そのものについてはそもそも論理階梯が違うため、価値判断ができない。なにかの価値を論じたければ「生の平等性」という前提から始めるしかないのである。
と本書と同じことを言っている。
生命が価値の基盤ということはどういうことだろうか?
これは、人を殺傷すること、すなわち生命を傷つけることをマイナスの価値とし、その反対、人を助けたり、育てたり、治療したりと生命を守り育むことをプラスの価値とするという意味と捉えていいと思う。
ここはわかるのだが、「生についての価値判断は不可能」とはどういうことだろうか?
「生」のここでの意味を文字通り「生きていること」と捉えてみる。
生命維持装置を付けて「生きていること」。普通に社会生活をして「生きていること」。
こう書いてみた。
この2つの「生きていること」について価値判断をするとどうなるか?
生命維持装置をつけてないと生きていられない人の生は悪い生で、普通に社会生活をしている人の生はいい生だと価値判断してしまうと、悪い生とされた人たちが安楽死の名のもとに安易に殺されてしまうという恐れが確かに出てくる。
なるほど、確かに生についての価値判断、すなわち「生きていること」自体を価値判断の対象にすると恐ろしいことが起こってくる。
「生についての価値判断は不可能」というか、してはいけない。
本を読んでいるときより理解がすすんだぞ。
なるほど。確かに斎藤さんの言う通り、「なにかの価値を論じたければ「生の平等性」という前提から始めるしかないのである。」。